2018年08月13日

「日本人の音楽教育」 ロナルド・カヴァイエ著

1980年代に出版されたこの本が問いかけている問題は、37年たった現在でも問われ直されねばならないどころか、事態はより深刻化している。
クラシック音楽を理解するには多岐にわたる文化的教養が必要だということをカヴァイエは主張する。
クラウディオ・アラウは「音楽家の文化的地平線は広ければ広いほど良い」という言い方をしたが、
現実には音楽家の教養水準は下がり続けている。
一例としてリストのダンテ・ソナタを弾く学生がダンテの「神曲」を読んだことがない、読もうとすらしない事をカヴァイエは指摘する。しかし、その学生を指導する立場にある音大の先生自体が恐ろしく教養が不足しているのが実情だ。学生がそのレベルであるのも当然である。
なぜ、これほど日本の音楽界において読書の重要性が軽視され、教養というものが価値を持ち得ていないのだろうか?

その前にアラウの言葉に戻って、なぜ「音楽家の文化的地平線は広ければ広いほど良い」のか?
答えの一つはたぶん、音楽というものが理性を超えたもの、合理性を超えたものであるからなのだろう。
答えのない世界に近づくためには人類の最高度の経験値が必要なのだが、一人の人間が一生の間に経験できる量と幅は限られているので、自分以外の多くの古今東西の人間が謎の解明に挑んだ様々な試み、葛藤の結果、経験知の総体がその一助となるであろうと推測されるからだ。
それらを必要としないという態度は、自分という「一存在」の感性、知性によってでも芸術に内在する謎を解明しうるという、ある意味で極めて傲慢な態度と言えるだろう。

恩師の一人であるドイツ人の言語表現の専門家ウタ・クッター氏は、演奏家が演奏に臨む段階として「Denken, Fühlen, Spielen」= 「考え、感じ、演奏する」が定式であるとした。
この場合、「考える」とは、狭い意味での「思考」を指すのではない。そうではなく様々な経験知という引き出しからもっとも適切なものを引き出すという意味だろう。その次にそれらに思いを巡らし、よりリアルに感じる=追体験するとうことだ。様々な経験知を自分個人の範囲で賄えると考えるほうが無理があり、それゆえ読書体験、その他の芸術体験(映画、美術等)が必要になることは当然であろう。
以前開催した連続講義で参加者の一人が「考える前に感じるが来てはだめなのでしょうか?」と質問した。彼女がどれほど広い引き出しを持っているかは定かでないが、自身の感性の幅と深さがショパンやシューベルトに比肩するとでも思っているのだろうか、だとしたらそれほど謙虚さを欠いた態度で楽譜から何を読み取れるというのだろうか?

カヴァイエの言いたいことも大筋そのようなことだと思うが、果たしてどれだけの音楽を教えていると自称する人たちがこの本を読み、また、読書の重要性を自覚しているだろうか?
その必要性を自覚する音楽大学の先生なら、講師室で油を売る時間をもったいないと思うだろうし、その無駄な時間を(政治活動には必要な時間なのだろうが‥)なぜ読書に充てないのだろうか?
大学でドイツ音楽を教えながら、ゲーテを一冊も読まずに一生をやり過ごすのだろうか?



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2017年01月11日

ベルリン、天使の詩

1980年代ドイツ映画の名作を再鑑賞した。
最後に「安二郎(小津)、フランソワ(トリュフォー)、アンドレイ(タルコフスキー)に捧ぐ」とクレジットされたこの映画は、映像や手法においてはなるほど、彼ら3人に負うところが多いが、主題的にはヘルマン・ヘッセと共有するとことが多いと感じた。そのテーマとは一言でいうなら「聖性と俗性」、「人間的なるものと非人間的なるもの」、その両者間での人間的葛藤、といったところか?
ヘッセが「知と愛」、「ガラス玉演戯」で描こうとしたものはまさにそれであり、さらに類型を求めるならウンベルト・エーコの「薔薇の名前」が思い出される。そしてさらには、ゲーテの「永遠に女性的なるもの」も当然テーマとして重なるものだ。

天使から人間になるブルーノ・ガンツ演じるダミエルは、「ガラス玉演戯」になぞらえるなら「理想的教育州カスターリエン」から俗界に降りていくクネヒトであり、「知と愛」におけるゴルトムントだ。
彼らは高みから降りて人間的な生を謳歌しようと試みる。
はじめはいつも高みから人間界を見下ろしているが、時々そばに寄り添っては人間が声に出さずにつぶやいている言葉に耳を傾ける。
このような存在は、「インテリ」の隠喩でもある。と同時に「さしずめインテリだな」で有名な、一見インテリとは真反対の存在、フーテンの寅(彼もある種の天使であるだろう)にも共通する、いわば「聖なる領域」の住人だ。
聖と俗という2つの世界を隔てるものは何か? が、この映画の主要テーマの一つであることは間違いないだろう。だからこそベルリンなのだ!
壁こそは人為的なものだが、実は、天使にとどまるか、人間と交わるかも、ちょっとした壁を壊すことで自由に行き来できるのではないか・・・・

ダミエルは親友カシエル(オットー・ザンダー)に、永遠の生命を放棄し人間になりたい、と打ち明ける。やがてサーカスの舞姫マリオン(ソルヴェーグ・ドマルタン)に想いを寄せるダミエルはついに「壁」
を超える。「壁」を壊し「壁」を超えたかに見えるベルリンは現在どのような立ち位置をこの世界で占めているだろうか?もっとも多文化主義が成功したかに見える都市、歴史を直視しつつ未来志向の都市。
EUが崩壊の危機にあり、メルケルが再任を危ぶまれる現在、この都市から目が離せない。
posted by ms-tomo at 21:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

6月のピアノ講座

毎月実施しているピアノの先生を対象とした講座の成果が表れ始めていると感じた今回。
皆さんが持ち寄った曲は、小学校低学年向けコンクールの易しい、1ページのものから、デュティユの超難曲まで多岐にわたる。今回の参加者は5人。一人約30分のレッスンをほかの人は聴講するという形式でやっている。
そもそも、「もっとも簡単な曲を最も難しい曲だと思いなさい」というブゾーニの言葉をモットーに掲げた講座である。今回ももっとも優しい曲の中に難しさを発見し、それを皆と共有できてきていると感じた。例えばバッハのシンフォニアの簡単なテーマに潜む語り口(ディクション)の可能性と多様性!
ショパンの指使いの意味深さと合理性!
有名なノクターン、作品9−2の変奏されるたびに見せる表情の広がりと展開の妙!

もはや、参加者は簡単な曲をナメてかかることの危うさ、もったいなさ、傲慢さなどを感じ始めており、
だからこそ見えてくる奥深さ、音楽表現の多様性に目覚め、それらを味わえて来ていることは本当に素晴らしい。ただ弾くのではない音楽の喜びをこれからも共有していきたい。
そして、日本の音楽大学でもこのような取り組みがもっともっとされるべきなのだが・・・・

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2016年04月15日

「ハノン」の使い方

「ハノン」の使い方
ハノンは書かれている通りに弾くだけではモッタイナイ。
1番ら20番まででも、何十通りに弾くことによって、様々な指のトレーニングになる。
例えば・・・
@ 第1指、第5指を固定して(弾いた後、次に弾くまで鍵盤を押したままでいる)弾く。
A また、半音上げてDes-Durで弾く。全音上げてD-Durで弾くのも良い。
黒鍵が多く含まれる調と、黒鍵が少し混ざる調で弾くことで様々なポジションでの指の距離間を指が覚えていくことを促す。
もちろんこれらは手も小さな小学生にはお勧めではない。
中学生以上に限定すべきではある。ドイツの「ランゲンハーン」のトレーニングにしても同じ。

ところで誰も主張しないことだが、Hanonはフランス人なのだから、現地読みを尊重するならアノンと発音すべきではないのか?そしてBayerもいまだにバイエルだが、現代ドイツ語の発音をカタカナ化するならバイアーではないだろ言うか?
posted by ms-tomo at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | レッスン日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

「ピアノ演奏の芸術」 ゲンリヒ・ネイガウス著

あのスタニスラフ・ブーニンのお爺さんは偉大なピアニストであり。ピアノ教師だった。
DENONから出ている彼のCD-Boxは貴重な遺産であり、私の宝物だ。
リヒテルやギレリス、ゴルノスタエヴァ等々、名ピアニストや名教師を多くその門下から輩出したロシア音楽界の重鎮が残した記録はすべてのピアニスト、ピアノ教師必読の書である。

ネイガウスは実に教養豊かな人で、パステルナークを始め文学者や画家との交流も深く、ピアノのレッスンでもその豊富な知識を生かして、生徒の感性を刺激し続けた。例えばショパンの舟歌をシスティナ礼拝堂のピエタ像に例えるピアノ教師が現在、世界にどれほどいるだろうか?

彼は教師業のかたわら演奏活動も精力的に行っているが、忙しい中練習時間も充分には取れないのだろう、録音の中にはミスが散見する。それでもその高貴な精神性は十分に伝わって来て感動的である。
師を尊敬していたリヒテルは、彼が弾かないレパートリーがあるとすれば(例えばシューマンのクライスレリアーナ)「ネイガウス以上に弾ける自信がないから」だという。リヒテルに倣うとすれば今日のピアニストのレパートリーは半分以下に減ってしまうのではないだろうか?
ネイガウスの演奏は音楽が(18~19世紀のクラシック音楽)精神性が問われるべき芸術であることを思い出させてくれ、今日における演奏の在り方が技術偏重で中身のないものであることを、過去から糾弾するがごとく私たちに突き付けてくる。
posted by ms-tomo at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | お勧めの本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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